昭和41年08月18日 朝の御理解
私、今朝からこんな夢を頂いた。ま、いうなら椛目の字引とでもいうものでしょうかね。参考書、もう古い古いそれこそ何百年も経ったであろうと思われるような古い字引なんですね。こんなに分厚いんです。それがその椛目の字引と言った様な感じなんですね。それを開かせて頂きますと、ここで私が皆さんに何時も聞いて頂いて居る例えば御理解の解釈なんですね。例えば難しい、難しい解釈はここにはありませんけれど解釈に大変苦しむ御理解が沢山ございますよね。
例えば牛のお知らせを頂いたら家のめぐりとか、蛇のお知らせを頂いたら身のめぐりとかいった様な様々な沢山の表現とか、内借ですね、そういうことが事細やかに書いてある。まぁいうなら椛目でおかげを頂いていく者がこれは是非必要なものである。いよいよ分からん時にはその字引を開いて見ると、そこに答が出て居ると言う様なです、字引だけを頼るわけではないでしょうけれども、分からん時には字引を引けばすぐ分かると、例えていうならば、御夢の欄というのがあるんですね。
その御夢のところなんかには絵がいちいち描いてあるのです。図解がしてある。そしてこういう御夢のお知らせを頂いた時にはこういう様な事だと言う様な事が書いてございます。その中にです、一つこう言う様な事が書いてありました。正に借用仕つり候と、五つの漢字で書いてある。これなんかは借用証書に書きますね。右正に借用仕候とか、右正に受取候とか書きましたですね。そういう風に右正に借用仕候と、そしてその横に厳禁と書いてある。これはもう厳しく禁ずると書いてある。
そして右の五字、五つの字ですね、厳禁の事と書いてある。いわゆるこれは厳しく禁ずると書いてある。これが一番参考書の中でも印象的に残って居りますところのお知らせでございました。まぁこの事から色々考えさせて頂くのでございます。昨夜から以前頂く御理解に、例えば一生懸命に働いてある、真面目である、忠実である、しかもいまどきの職人さんであるならば仕事もいい。人物もいいというのに拘らず、例えば盆とか師走なんかに締めくくってみると赤字である。
これだけ働いて、これだけ上司に認められているんだけれどもどうしてこんなにもうからんだろうかと、例えばその人がある御道の先生に聞くと、貴方は天地のつながりを持たんからだとこう話されたということです。そこでその話を聞けば成程と合点することばかりでございますから、先ず天地につながりを持たなければ、例えていうならば大工さんが使われるその方は大工さんですけれども、材木一本使わして頂くでもです、天地の神様がお育て下さった、お作りになったところの材木を使わして頂くのであると。
カンナだってノミだって実をいうたら自分が目を覚めたら本当に神様のお生かしのおかげを頂いておるんで目が覚めたことが有難いと分からせて頂くと言う様な事が分かってきた。そしたらそのすぎとし一年後には赤字が黒字になったと、仕事は別に沢山した訳ではないけれどもですね。必要な経費がじゃない、不必要な経費を沢山しておった。例えば引っかかりごとが出来たり、病気をしたりと言った様な経費が全然なくなった。天地とのつながりが出来た。
そしたら今迄出来なかったいわば残る金がです、借金が反対に残り出したと言う様な意味の事に於てです、例えば金光教では説いてありますね。一切が天地の親神様の御物だからお野菜でも自分が作るんじゃない、神様がお作りになるのだ。そのお手伝いをさせて頂くだけの事なのだと。そういう頂方が天地の神様とのつながりを作ると言う事を一般に御道では説きますですね。だからもうそこに既に天地のつながりが出来る訳なんです。そこんとこを椛目ではもっともっともうそれこそ。
ずうっと深いところをいつも説くわけですね。いわゆる成行きを大事にしろと言った様なことがそれなんです。例えば私共はです、もうほんとに神様から御覧になればもう浜の真砂一粒にもあたらんかも知れません。一滴の水にもあたらんかも知れません。神様が大海の水とするならばです、私共は一滴の水かも知れませんけれども、ここを私どもが信心にならせて貰い神様任せの生活をさして頂くようにならせて貰い、天地の天地の御道理が分からして貰うたその道理に添うた生き方にならせて頂く内に。
一滴が木のはや枝の下をくぐって谷川に流れ込む。そうしてそれが大海に入るときには成程一滴の水であるけれども、もうそれは一滴の水ではなくて大海の水なのだと言う事。ここで天地の親神様と一体、親のもんは子のもん、子のもんは親のもんと言う様なです、おかげは受け得、受け勝ちと言った様なです、何ともかんとも言い表しの出来ない程有難さ、そこんとこを一昨日繁雄さんがですね、天地の親神様と一緒に休んで居るという御理解を頂かれたんですね。そういうおかげ頂けと。
天地の親神様と言うても分からんでしょうけれども、上野愛子さんと一緒に休んで居られるというお夢であったと、そしてこういうおかげ頂けと、それは一つ誤解せんようにですね。上野愛子さんはここで修行して居ります女性です。繁雄さんは男ですから男と女が一緒の床に入ってそこだけそれを言うといかんです。上野愛子さんというのは、いつも天地の親神様の表現の時下さるですから、天地の親神様と一体であるということなんです。そういうおかげを頂けと。
まぁ皆さんもご承知のように椛目に見えたときだけは本当にもうこれこそ一体じゃなかろうかと思うですね。親先生任せということに於ては、例えば親先生がですね、親先生が、皆さんが頂かれるところの親先生が親神様とつながりを持って居るでしょうがと。いうならば神様と同じ事なんだと。成程うちの先生は天地が自由になる様な御信用を受けておられるなと、もし皆さんが信じられるならです、これは天地の親神様と同じ様な働きがです、それはささやかでありましても出来て居られるということなんです。
だから親神様とは親先生ということは。私が何時も言うように大坪総一郎とは又別のものだと思うのです。ところが繁雄さんの場合でもです、それが一度自分かたに帰るとです、息子さんがです、うちの親父は椛目ではああしているけど、家ではこうですよというが、それはまあ無理からんこともございますけれども、やはりそこには我情があり我欲があり、やはり怠慢があるということなんです。
そこんところが段々ちじめられていかなければならない。ここんところは様々な角度からいつも説いて居るところでございますから、だからそう言う様な様々な角度から頂いておっても分かっただけでは駄目だと。その熊本の大工さん、大工さんの話は熊本の大工さんの話なんですね。例えば通り一ぺんというたら大変失礼なんですけれども、先ずお道案内を頂かせて貰うと必ずそういう事を教えられます。
先程申しましたように貴方が生きとるのじゃない、生かされておるんだと、材木一本だって、あなた体が使っておる材木一本だって天地の親神様がお恵下さったものなんだと、それを分からせて貰うて使うということは合掌しなければおられないよということを教えられる。それを分かっただけで赤字が黒字になったと。そこにはその人が自分で、先生私は何も悪いことはしていません。
仕事は忠実にしなければならんと、これは自分の信条なんです。生活の信条なんです。正直でならなければならない。いうならば立派に人物としての人間としての生き方というのが出来て居られると言う事なんです。ですから人間はこれが根本になると言う所、どんなに天地のつながりが分かった所で肝心要のいわば人間そのものがです、お粗末であったり信心しておってあげな事でいいじゃろかと言った様な事では。
天地のつながりは受けられません。まして椛目の御理解など頂いとりますと、それこそいちいち参考書を引かねば居られない程に微に入り細にわたっての天地の?がりと言う事。いわゆる神様と私共の関係をいよいよ頂くわけでございます。ですからそこんところのルールを分からせて頂いたらそれに添うような生き方にならなければならないと言う様な、ですからそういう神様と一体というか取次の?がりを持っていかなければならない。所が椛目ではです、もう皆さんの場合なんかでも断片的にはです。
本当に神様のおかげちゃこんなもんであろうと、神様と天地と皆さんがつながっておられるかのようなおかげを時々には受けて居られるでしょう。それがずっとじゃないでしょう。切れておるでしょう。それが皆さんの心のなかにある我情我欲という神切り虫がおるからです。そこが違う。心の中にです、神様とのつながりというものを切断して仕舞うようなものが皆さんの回りにあるからなんです。惜しいでしょう、そういう事で私は改まらないかんですよ。改まらないかんですよ、
改まらなければ神様の折角のつながりというものが切断して仕舞うような結果になるのです。そこで今朝から私がまた頂いておることもです、こういう意味合に於いても天地とのつながりというものを段々作って行かなければならない。いよいよ押し出しでいかなければならないということを思ったんですね。椛目のこれは字引と思われる、参考書と思われるそうい厚いそういうその御理解の難解なものをです、引けばすぐに分かるようにしてある。その中にひとつ椛目で信心するなら。
これだけは守らなければいけないと言う様な意味に感じられます。それは右の事、厳禁の事ということなんです。これはお金だけの事だけではありますまい。物だけの事でもありますまい。正に借用仕り候ということは、これは現金のことと、そういう様なことがです、せっかくの天地とのつながりを切断することになってくる。だから昨夜の御理解の続きということになる訳なんです、そのことも。例えばお金が足りない、足りないなら足りない範囲でやって行けということ。
食べるお米が無い、食べんという気になれということ。本当に食べたいと思うなら一生懸命働かせて頂いてお米を買わせて貰いお金を入手して行かなければ駄目。それを安易な方へちょっと前から借っとけと言う様なことではいけんということ。千円の収入しかないのに千二百円の生活をするから二百円どころか借りなければならんということになる。例えていうならば、大黒さんがです、五尺の大黒様がござるとするならばです、打出の小槌も五尺であるならば持てる筈がないということ。
釣合というものが大事だということ。先ず何が何でも自分を知れということ。だからここに一つ皆さん、誤解なさってはいけない。まだ分からなければならない事がある。御商売させて頂いているものが、例えば借金をして居りますよね。これはですね、これは力なんです。一億円なら一億円の借金を持てるほどの力を頂いて居られるのですよ。これは別です。借金をしたのじゃないです。まあ借金をしたんじゃないというか、それは神様が貸して下さったんです。自分から借りたんじゃないです。
お宅の米が無いごとあるけんでうちんとばちょっと使って下さいと、これは勿論自分から求めるのじゃない、頂くのです。いわゆる借りる力があるんです。そこでしょうがね。この事は誤解しないようにしとかんと、ああ家あたりは商売で借金をするなんてこれは神様との折角の縁は切断してしまうというて、借金払いをしよったら商売は出来んようになる。そんな意味ではないからそこんとこをどうぞ一つ分からないけんです。あっちは生活に困ってあられることである。
同じ信心友人の人がですよ〇〇さん、使うて下さいというて、持ってきて下さるようなお金ならばこれはいわば力なのですから、信用なのですから。問題は私が同じ信心友達に、誰さんいっちょ借りようと言う事ではいけんと言う事なんです。まぁこれはちょっと話が違いますけれど、例話です私の家内の姉が奈良にいます。一緒に引き上げて参りました。義母も一緒に引き揚げました。ここにあの久富正義さん一緒に私共があちらに参ります時一緒に来てくれましたから、あの人が一番よく知っています。
もうそれこそ家というより小屋と言った様な家に住んでいます。だからあちらに義母の親戚があります。親戚はみんないうなら大きな製材をやったり百姓をやったりしていますから、親戚にはそげな生活しとる人は居りません。親戚の人がおらんような生活をしておる。私と正義さんと同道でまいりました時にたまがりました。ほんの二部屋にお庭があるだけ、その庭に炊事場があってです。所がそらたまがっ蛸とは、神様と仏様がですね、もうこの部屋には勿体ないごと立派にお祀りしてある事でした。
と同時に食器類が光輝いていることでした。正義さんがたまがっとりました。もうそれこそ鍋でん釜でん食器類がです、本当に整頓され光輝いていた。丁度私共が参りました時に親戚に不幸があって居りませんでした。娘が留守番しておりました。その時私と正義さんが参りました。よその家の路地を通って行って、まあ本当に物置か何かで使ってあったところです。それをまぁ女手で引き揚げて来て主人が亡くなりましたから娘三人と母とそして針子さんを三人か四人お弟子さんが居て非常に腕の出来る人です。
お裁縫が非常に上手です。皆さんもご承知でしょう、ここへ参っておりましたから、そしていよいよ驚きましたことはですね、いわばあの時分に、配給の厳しい時にですね、ずうっと頂いたお米の中から少しづつ貯めてからお米が一俵貯めてあったことでした。そして言うことがです、年寄りがおりますから何時不幸があるやら分からん、いつまでか分からんからそういう時隣近所にいくら親戚が居るからと云うてお米借りに行かんならんと言う様な事があったんではいけんと思うてから。
こげんして貯めたというてから申します。それで子供達は高校まで出して稽古事もさせて、そしてみんな良い人を見つけて片付けておりますが、本当に云うならですね、義母は大体私ががみることになっとったです、初めは。ですからほんなこつならうちあたりにでも借用申し込んでもいい筈なのに、これこそ一銭だって貸してくれとは言ったこと無いです。この人は私はそれを良いとか悪いとかじゃないです。もうそれは厳しいことです。一家が家を見るとびっくりするごたる。
鍋や釜は光輝いているけれども、中を見るとびっくりする様な、生活をさせて頂いて人にご迷惑を掛けちゃならん、自分だけこういう生活をしているから、親戚のもんが付合わんと言うなら、付合わんでもよかという生き方なんです。ですからそう言う様な生き方は成程いいようでありますけれども、天地とのつながりがないのですね。これは信心があってです、それはここに来るようになってから、お祭りでもしておりますけども、真の信心は出来て居りません。
私のいうのはです、本当に天地の繋がりがあってから、天地の親神様の御心が分からせて貰い道理が分からせて貰い、自分達にはこの収入しかないのだからこれだけの生活をさせて頂く。これを成行きを大事にさせて頂く修行であるとするならば、そこは天地のつながりが出来て来る。ここが素晴らしい。天地のつながりが出来てくる、そこに私共に力が段々出来てくれば五の力の時には五、十の力が出来れば十の生活が段々出来て来るようになる。ですからこれに信心をプラスしたら素晴らしいのです。
私共の場合はそれがあった。人間にはやはり見栄というものがある。ですから自分が無い力でもあるようにみせかけたいのが人間なのです。そういところを、例えば謹んで行かなければ神様との折角のつながりというものを切断して仕舞う結果になるとするならば、これは痛うても苦しいても辛抱しなければいけないでしょうが。折角こうやって神様とこうやってつながりが出来ていきよるならです、自分の生活自分の能力以上の生活させて貰うと言う様な事がです。
神様の縁というか、神様のつながりを切るとするならばです、ははぁ神様がここはこれで修行していけと言うておられるということを本当に分からせて貰わないけん。私は今朝頂いた右の五字は厳禁の事をこれだけ禁じておるぞと、椛目で信心させて頂く者はここのところを守らなかったらおかげは受けられんぞと、それはおかげを頂く虎の巻というか、いうなら椛目でおかげを頂く為のコツとでも言おうか、そういう事がギッシリ書いてあるところの参考書の中にはっきり出て居るということ。
でないと、神の働きというものを見逃したり切ったりしてしまうという結果になるということ。私共どこまでおかげそのものがです、神様のつながり、神様のおかげ頂いてということにならなければならん。いかにも例えこれは私がそういう御徳に触れていうるということもです、五尺しかない大黒様が五尺の打出の小槌を持てる筈がない。一尺なら一尺の打出の小槌でなからなければ釣合はないように、問題はだから五尺の打出の小槌が欲しいと思うならです。私自身がです、一丈にも二丈にもなる程の大きな。
おかげを頂かなければ出来んと言う事になる。皆さん、ここんところがお分かりでしょうか。椛目ではここんところが分からなければ駄目です。その椛目の信心の素晴らしい所はここなんです。皆さんが例えば他方で稽古なさった方達はよく聞かれた事でしょうが、昨夜私が熊本の大工さんの例をもってお話した事なんか、それとてもです天地の繋がりが出来るのです。信心の有る者と無い者の違いはここなんです。だから片方は赤字になり片方は黒字になるのだ。信心の無い人も立派な生き方をしておる。
立派な生き方をしておる人がです、天地の親神様の御恩恵を分からせて貰って使わせて頂いておる。材木の一本だって神様の御物であると言う様な事が分かって来る。そこから天地との?がりが出来て来る。?がりが出来て来るから今まで起こっておった災難がなくなってきた。病気がなくなった一年締めくくってみると今迄赤字だったのが黒字になったと言う様なおかげになって来るのでございます。これはもっともっと厳密に天地と?がりの御徳をおかげじゃなくて御徳でしょうね。
私の言うところは、天地とのつながりの御徳を受けさせて貰おう、天地の徳を受けさせて貰おう。繁雄さんが頂いたように天地の親神様と一体になりよると言う様なです、おかげを頂くために一切が神様任せということと同時に、只今申しましたようなことをです、心の底にちゃんと頂いて、こげな事ではおかげは頂かれん、うんこれで行かなければおかげが受けられんと言った様な事をです、分かって行かなければならんと思うのですね。
どうぞ。